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鋳物の歴史

鋳物の歴史は古く、紀元前4,000年ごろ、メソポタミアで始まったといわれています。銅を溶かして型に流し込み、いろいろな器物をつくったのが始まりです。鋳物は、人間のモノづくりの中で、最も古いもののひとつといえるでしょう。

日本に鋳物づくりの技が伝わったのは紀元前数百年ごろ。1世紀に入ると、銅鐸、銅鏡、刀剣などがつくられるようになり、奈良時代になると、仏像や梵鐘などが盛んにつくられました。各地に鋳物づくりが広がったのは、平安時代なかば以降といわれています。

鋳物が現代の工業の形態をとるようになったきっかけは、18世紀なかばにイギリスで起きた産業革命です。工場制工業の発展とともに、鋳物が広く機械文明の中に採用されるようになりました。

日本では、江戸時代末期になって近代化への動きが活発になります。幕府はオランダから技術を導入してキュポラを建設しましたが、これが近代化へのさきがけとなりました。

長い歴史の中で、鋳物はいつの時代も重要な役割をはたしてきました。その技術が今日まで受け継がれているのです。

川口鋳物の千年史

川口鋳物の発祥については諸説あります。
文献が残されていないため詳細は不明ですが、以下の4つのいずれかが定説となっています。(これ以外にも新説もあります。)

平安時代説

940年頃、平将門の乱の鎮圧に来た豪族の従者が鋳物師だったという説

鎌倉時代説

1190年頃、南宋人の鋳物師が来川した説

南北朝時代説

1340年頃、河内国丹南の鋳物師が移住してきた説

戦国時代説

1500年頃、岩槻城主の御用鋳物師・渋江氏が関わっている説

江戸時代

  • 鍋・釜・鉄瓶、鋤・鍬など日用品や農具の製造を始め、梵鐘、灯篭、鰐口、天水鉢など社寺用具などを造った。
  • 真継家が川口鋳物師に免許状を発給。
  • 1641年、鋳物師の永瀬治兵衛守久が錫杖寺の梵鐘(県指定文化財)を造る。
  • 幕末に幕府や14藩などから大砲、弾丸を永瀬、増田家などが受注、川口鋳物師の面目を保った。その技術は梵鐘の製造が役立ったといわれる。

明治時代~大正時代

  • 日清、日露戦争までの時期、川口鋳物が近代工業に発展する基礎をつくり、とくに日露戦争以降、飛躍的な発展を遂げる。
  • 炭吹きからコークス炊きへ、生型法の導入などの技術革新。
  • 営業品目も日用品・農具(鍋・釜、鍬・鋤)、仏具(梵鐘、天水鉢)から建築用品(門扉=女子学習院、鉄柵=二重橋、街路灯など)、鉄管、機械部品など製造品の拡大や営業の自由化(販売は問屋依存から自立)が進む。
  • 1905年8月11日、現組合の前身、川口鋳物業組合が創立。

昭和時代(戦前)

  • 初期に金融恐慌発生、労働争議の多発。
  • 満州事変以降、軍需関連産業の色が濃くなる。
  • 1933年4月1日、川口市制施行。

昭和時代(戦中)

  • 1942年、単独市で鋳物生産量の日本一を達成。(工業統計)

昭和時代(戦後)

  • 終戦直後は不足していた鍋・釜・ヤカンなどの日用品で生産が活況に。
  • 輸出の増加、設備の近代化に取り組み、30年代半ばから日用品に代わり機械鋳物が急速に伸びる。
  • 1947年、工場数が703となり、鋳物生産額が全国の約3分の1占める。
  • 1958年、東京で開催の第3回アジア競技大会に使われた国立競技場の聖火台は川口鋳物の代表作といわれ、鈴木万之助・文吾親子(完成品は文吾の作)が製造。1964年の東京オリンピックでも使われ、全国に川口鋳物の技術力を広く知らしめた。
  • 1962年、吉永小百合主演のデビュー作映画「キューポラのある街」。
  • 1973年、川口鋳物生産量が40万7千トンとピーク。
  • 1975年、受注激減に伴い鋳物組合主催の「不況突破総決起大会」を開催。

平成時代

  • 2005年、川口駅東口前の再開発ビル「かわぐちCASTY」完成。
  • 同年鋳物組合創立100周年・川口鋳物の日(8月11日)制定記念式典。
  • 2010年8月11日、組合創立105周年、冊子「川口鋳物の歴史」の発行。

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